2-3.デザインの再定義

目標の変化
これまでは、せっせ、せっせと働き、人よりも良い暮らしをしようと、今までの産業資本主義社会を発展させ貢献してきました。 一方で、今回の東日本大震災を経て、これまでの科学技術への信頼が揺らぎ、ブータンの国王来日に伴い、物質的な充足による幸福感に対する疑問が生まれてきています。traffic韓国にしても、デザインというものが一つの企業戦略となり、ものすごい勢いで品質もどんどん上っています。まさに抜かれようとしています。このまま行けば、家電は完全に負けてしまうでしょう。企業としてデザインをどうするのか、国家としてデザインをどうするのか、ここをしっかり考えていかないと、今の日本は少し危ない。欧米を抜き去ったのと同じような形で、どんどん振興国に抜かれようとしています。日本はここで何を入れなければならないのか、何を持ってこなければならないのか、それがこれからの課題ではないでしょうか。

ミッション
我々は果たして将来に向けての目標を持っているのでしょうか?南都仏教のミッションは「国の安泰」で、今でも薬師寺等の僧侶はそれを案じ、国の在り方、経産省の動き、文化省の情報を得て、未来についての研究や思索を怠っていないという話があります。ではデザイナーである私たちは、10年後20年後が見えているでしょうか?私達は南都仏教でいうミッションは見えているのでしょうか?

西欧文明からの脱却
先ほど浅香理事長の話で、キャッチアップの時代・・・高度成長時代を過ぎ、日本の課題が見えているのに、自らが先頭に立った時、どちらを向いて走って行けば良いのか解らないのが、今の私達です。しかし、このように時代背景が変わってもその目標を見つけ、日本はどうあるべきかを考えなくてはなりません。しかしながら、西洋文明的な枠組みからの発想であるユニバーサルデザイン、インクルーシブデザインのキャッチアップを使用としている様に思われます。この辺りは議論を深めなくてはなりませんが、ギリシャ、ローマ、キリスト、西洋啓蒙思想的発想になっているのではないかという疑念が生まれてきます。世万の神と、仏教思想に基づいた考え方ではない様に思われます。繰り返しになりますが、欧米の価値観や基本的な考え方が日本のそれと違うのではないでしょうか。日本の歴史や我々の社会の反省から、課題解決する目標を発見する必要があります。日本文明として。今、日本社会は大きく転換しようとしている曖昧な時代では無いでしょうか。

モノづくりと情報価値
情報社会や情報そのものが圧倒的な力を持つようになり、情報に価値があることは理解が出来ますが、リーマッショックによる経験を経て、情報だけに頼ることへの危うさを感じます。

デザインは設計なのか意匠なのか
中国ではデザインのことを「設計」と書きます。sekkei 「意匠」とは書きません。少なくとも私達は、意匠設計、設計まで含むとして、デザインを「意匠」と言います。しかし意匠とは、いわゆる形、色の事です。中国では全く「意匠」という漢字は当てません。必ず「設計」です。この辺りを、もう少しみんなで詳しく議論する必要があります。

日本ではデザインを「意匠」と表現して良いのでは
日本では意匠という言葉を堂々と使えば良いのではないでしょうか?ishou設計という概念は、どちらかと言えばプランニングや組み立てていくコンストラクションの方にウェイトがあります。しかし、「意匠」の「意」は、考えや知見だけでなく、人間の頭の中にまだ形式知として表現出来ないものも含めて人の思いを指します。また、「匠」は、具体的な表現や実体にする為のメソッドやクリエイティビティを示す意味を持っています。そうすると、設計をも包含していると解釈出来ます。一方、設計はシステムや仕組みを作っていくことも含んでいて、理性的に問題解決を計画するニュアンスが強いです。逆に、感覚やイメージを含めたアイデアを生み出すというニュアンスが希薄になる様に思われます。「意匠」は設計や計画という概念と、感性的なアーティスティックな物の計画の意味を持っている気がします。

インダストリーは工業なのか産業なのか
もう一つは、やっぱり英語であるインダストリーということをどう理解するかです。これは産業と理解するのか、それとも工業と理解するのか・・・。インダストリアルデザインは「工業デザイン」と訳されてきました。しかし、インダストリーはやはりインダストリーで「産業」と訳すべきではないでしょうか。欧米では工業という商業もあれ、農業もあれ、その中で工業だけを取り出してインダストリ-とは決して言いません。このあたりの概念をやはり共有するところから始めないと、議論が噛み合いません。

「形」は重要である、「形」はスタイルではない
いつの間にか意匠を「スタイル」という風に捉えてしまったのが間違いだと思います。同様に、「形」とも言うけれど、安易な美しくない形が作り出されてはいけません。形という概念は、経営者はもちろん、色々な立場で使用されます。形というものに対して、非常に軽薄なものとして捉えている事が間違いです。正しく美しい形が間違いなくあります。基本的な形の追求を怠ってはいけません。社会に対して「形」という正しい答えをもたらす意識と責任を持たなければなりません。

「形」という物の本質を伝えるメディアに責任を持たなくてはならない
デザインする事は、「形」でモノの本質を知らせることです。そのように考えると、「物と事」という考えが出てきますが、どうも「物」と「事」が分離して考えられてしまいます。物に秘められたストーリー性の中に商品の価値等があるとすると、物と事は同じです。デザイナーは、そういう物に対する物語が秘められた「モノの形」に責任性を持たなくてはなりません。

デザイナーは産業の下僕
デザイナーはただ産業の下僕のような状態で絵を描き、設計は技術者に任せて責任を持たず、形の判断も経営者に任せています。生産も生産技術者に任せています。結果的に、責任の取り方を知りません。


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